渓魚の放流について

放流についても同じだ。放流にも色々な立場の人間や多くの釣り人が関わっている。放流することを自分の魚や川のようにいう人間がいるがとんでもない話だ。そういった自分欲に満ちた釣り人が問題を起こす場合が多い。密漁や禁漁期に釣り人として竿を出すなどの行為は最悪である。しかし名目があっても原種の保存会などという会や個人の無差別な放流はどうか?よく聞く生態系への危惧だ。確かに人間は進化の過程で間違いなく自然を利用、開発、保護もしてきた。生物の生態系の頂点は何か?例えば北海道なら陸上動物なら間違いなくヒグマだろうがこのヒグマさえ人間には適わない。人を作りだしたのは?魚類の歴史は古い。自分達が繁栄する為に仲間も増やしてきた。人為的な破壊は自然環境を変え、生態系そのものの崩壊に繋がるかもしれない。放流により魚影が復活するのは釣人が魚を釣る目的でないなら、許される範囲でやるべきだが。美しい渓魚を見たことがない人や誰でも楽しめる管理釣場には賛成だ。渓流釣りという隔絶した世界を広く認めてもらえるかもしれない。人間は狩猟民族の末裔だから漁は必然だ。放流によって増やすのは数の倫理もある。放流され、数が増えるのは魚達にとって種の発展には絶好の機会だ。彼らも命がけだ。原種がいなくなるから放流はしない方がよいか?それも一つの考えだ。全く人間都合の共存共栄の考えだが。
関東管領・翠月
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